内戦の国にもたらしたダイヤモンドに踊らされた国、シエラレオネ。それはやがて、国に更なる血の雨を降らせることとなった。

シエラレオネ

歴史

シエラレオネ、この国の名前を聞いたことがあるだろうか。この国が始めて文献に登場するのは、1447年にポルトガルの探検家『アルヴァロ・フェルナンデス』がこの地に停泊したときである。

1462年にポルトガル人よって現在のシエラレオネ半島が『獅子の山』と名づけられ、後にこの地域全体を指す言葉となる。16世紀から19世紀前半に駆けてこの地域では度々奴隷狩りが行われており、欧米の拠点としてイギリスの小規模な城西が海岸部に点在する程度だった。

18世紀後半にはいると、イギリスでは奴隷制度は意思運動が盛んになり、運動の指導者の一人でもある『グランビル・シャープ』はアフリカに解放された奴隷の定住地を作ることを計画する。そこで候補地として挙げられたのが、シエラレオネ半島であった。

1787年、彼は最初の移住者をシエラレオネに送り出し、その翌年にはテムネ人の王の一人とその臣下の首長達はシエラレオネ半島北岸の細長い土地をジョン・テーラー船長に売却し割譲した。

この土地は『フリータウン』と名づけられ、以後奴隷制度たちの拠点として活用された。植民地としてのシエラレオネは、このときより歴史が始まる。

『フリータウン』にはイギリスの他に、ジャマイカやアメリカ独立戦争において忠誠派として追われ、カナダのノヴァ・スコシアへと逃れた解放奴隷たちが入植する。

1791年には植民地を管理するためにシャープを会長としてシエラレオネ会社を設立するも、シエラレオネ半島は肥沃ではなく、近隣の部族やフランスの小艦隊からの攻撃などと重なって会社の財政を悪化させることになる。

1808年に、植民地は王室管理下へと移され、翌年にはイギリス議会が奴隷貿易を違法とする法律を可決すると、フリータウンは奴隷貿易を取り締まる艦隊の基地となる。歓待によって自由を得た奴隷達の多くはフリータウンへと残留し、植民地は徐々に拡大していった。また、この解放奴隷たちはフリータウンにて混血し、『クレオール』と呼ばれる新しい民族となり、植民地は1861年までに、地方の首領たちから土地の割譲や、色々な友好条約を通して領域を拡大し、シエラレオネ半島全域を領域とするようになった。

1827年にフリータウンでフォーラーベイ大学が開設され、クレオールはシエラレオネのみならず、他のイギリス植民地においても伝道師や教師として活躍し、19世紀にはこの地域の政治や貿易において中心的な存在になっていく。

一方で、1880年代よりイギリスは内陸部に勢力を拡大し、1896年には正式に内陸地域がイギリス保護領となる。シエラレオネ保護領と植民地は政治的には明確に分類され、1898年には保護領に導入された小屋税に反対し、反乱が起きる。20世紀にはいるとクレオール人の商人は国外から進出してきたレバノン人などの外国商人に太刀打ちできなくなり、活動の場はフリータウンに限られるようになる。さらに植民地の完了のヨーロッパ人化が進み、クレオール人は政治における主導権の多くを失うこととなってしまう。

これを見るに、いかに当時のイギリスが追い詰められていたという内心から来る焦りで、危険因子となるであろうクレオール人の抑制に乗り出していることがうかがえる。

第一次世界大戦にクレオール人医師の『バンコーレ・ブライト』と『ウォーレス・ジョンソン』を指導者としてフリータウンで民族主義運動が始まる。

第二次世界大戦後、内陸部の保護領にも選挙権が与えられ、1950年に医師『ミルトン・マルガイ』を党首として保護領の利益を代表するシエラレオネ人民党、通称【SLPP】が結成される。1951年の選挙ではSLPPはブライトとジョンソンらのシエラレオネ植民地国議会、通称【NCCSL】を破り、1957年の選挙でもSLPPは大勝し、マルガイはシエラレオネ初代首相となり、1960年にはロンドン代表団を派遣しシエラレオネの完全独立を認めるように要求した。

シエラレオネは1961円4月27日、イギリス連邦の一員として独立を果たすことになる。ミルトン・マルガイは引続き首相としてその任を果たし、1964年に帰らぬ人となるまで勤め上げた。後任として彼の異母兄弟である『アルバート・マルガイ』が首相の座を引き継ぎ、1967年3月の国民選挙までその職に着いていた。

同年の選挙では野党であった全人民会議、通称【APC】が第一党となったが、APCの議長である【シアカ・スティーブンス】が首相に着く前に、軍の指導者である【ダビット・ランサート】准将が無欠クーデターを起こし、職を追われることになる。

軍により戒厳令が敷かれ、軍の管理下に国家改革協議会がおかれたものの、APCの支持派によってカウンタークーデターが勃発、1968年にはスティーブンスが政権へと復帰する。

詩化しやがれスティーブンス政権は独裁化していき、1978年にはシエラレオネは一党共和制となり、スティーブンスは大統領に就任し、政権は1985年まで続くこととなった。

スティーブンスの後任となったジョセフ・サイドゥ・モモ少将は民主化運動を受け、1990年に複数政党制を導入するが、1991年には隣国リベリアのチャールズ・テーラー率いるリベリア国民愛国戦線、通称【NPFL】の支援を受け、『アハメド・フォディ・サンコー」ひきいる統一革命戦線、通称【RUF】が武装蜂起し、のちに続く【シエラレオネ内戦】が勃発するのだった。

1992年には『バレンタイン・ストラッサー』率いる軍の下級将校達がクーデターを起こし、モモ政権を打倒する。その後も政権は安定せず、その隙にRUFは勢力を拡大していくこととなる。

1996年、民主選挙が行われ、『アフマド・テジャン・カバー』が大統領に就任するも内戦は収まる気配すら見せず、1997年には『ジョニー・ポール・コロマ』がクーデターを起こして軍事政権を樹立し、RUFとの連携政権となった。しかしこれに国際社会が反発し、1998年には西アフリカ諸国経済共同体、通称【ECOWAS】軍がシエラレオネへと侵攻してコロマ政権を妥当し、カバー政権を復活させた。

カバー政権はRUFと再び対立し、RUFは国土の三分の二を支配するまで勢力を拡大させていった。

1999年7月のロメ和平合意で、停戦して秩序の回復に向かい始めるかに見えたものの、サンコーが副大統領に就任して権力を維持していた。

1999年10月22日に国際連合シエラレオネ派遣団、通称【UNAMSIL】が派遣されるも、2000年5月1日にはUNAMSILの要因500名が人質になるRUFの首都フリータウン制圧事件が発生してしまう。5月16日にサンコーがフリータウンにて市民達の手により拘束され、5月19日にイギリスはフリータウンとは入り江で隔たれた『ルンギ国際空港』へ増援部隊を派遣する。

以後、RUFは急速に弱体化し、2002年1月18日に和平とRUFの武装解除が成功する、3月1日にて長かった内戦が終結へと向かう。

2003年にはRUFの指導者であったサンコーがフリータウンの病院にて死亡し、2006年3月29に戦争犯罪などの罪で起訴されていたリベリアの『チャールズ・テーラー』元大統領が、亡命先のナイジェリアで拘束され、シエラレオネに移送された。

2007年には大統領選で、APCの『アーネスト・コロマ』が与党SLPPの『ソロモン・ベレワ』を破り、新大統領に就任、内戦終結以来、初の大統領選挙による政権交代が実現した。

2012年11月17日に行われた大統領選で原色のアーネスト・コロマ氏が過半数の票を得て、再選する。

政治

シエラレオネの政治は共和制であり、また憲法に基礎を置く立憲政治を採用しており、議会は一院制としている。

1961年にイギリスからの独立を達成・イギリス連邦の一員となり、1971年に共和制に移行する。

1978年には一党独裁政治となるが、1991年に複数政党制を取り入れる。

大統領:『アーネスト・コロマ』 2007年9月17日就任・全人民会議所属・2012年11月17日にて再選。

副大統領:『サミュエル・サム=スマナ』 2007年就任・全人民会議所属

シエラレオネには在日本大使館・及び総領事館は国内には設置されておらず、在中華人民共和国大使館が兼任し、在ガーナ大使館が、在シエラレオネ大使館を兼轄している。

政党

1.シエラレオネ国民会議【NCSL】 クレオール人が中心となっている政党。

2.統一人民党【UPP】 クリオ中心

3.全人民会議【APC】 テムネ族中心

4.シエラレオネ人民党【SLPP】 メンデ族が中心

5.人民国家党【PNP】

6.独立直線巨推進運動【EBIM】 『シアカ・スティーブンス』が設立

7.シエラレオネ進歩運動【SLPM】

8.人民民主改革運動【PMDC】 2006年1月19日に新しく、正式に登録された政党で、リーダーは『チャールズ・マルガイ』である。

経済

レオン

レオン (Leone) は、シエラレオネ共和国の通貨単位。レオネとも呼ばれる。1964年、西アフリカ・ポンドに代わって導入された。(1ポンド=2レオン)

銀行一覧

  • アクセス銀行
  • エコバンク
  • 第一国際銀行
  • 保証信託銀行
  • 国際商業銀行
  • マットゥル商業銀行
  • プロクレジット銀行
  • ローケル商業銀行
  • セブウェマ共同銀行
  • シエラレオネ商業銀行
  • スカイ銀行
  • スタンダードチャータード銀行
  • ユニオン信託銀行
  • ユナイテッド銀行アフリカ
  • ゼニス銀行

国民

住民は90%がテムネ族とメンデ族の2部族を中心にしたアフリカ系で、10%がクリオと呼ばれるクレオールである。

首都フリータウンのあるシエラレオネ半島に住んでいる。

クリオ人は主にイギリスや北アメリカやジャマイカなど解放奴隷の子孫や現地民族、及び白人との混血などからなっている民族である。この他にも少数ではあるがレバノン人を初めとするアジア人やヨーロッパ人も都市部に滞在している。

言語

公用語は英語であり、その他にて旨後やメンデ語などの各現地部族語、クリオ語と呼ばれる英語を母体としたクレオール語などが使われている。

宗教

伝統的宗教が40%、イスラム教が50%で、キリスト教が10%(そのほとんどがプロテスタントで、カトリックは全体の2%のみ)である。

キリスト教の布教活動は全国的に行われており、イスラム教の布教も西部地域を中心に活発に行われている。

教育

シエラレオネの教育生徒は、7歳から12歳までが初等教育、13歳から15歳までが前期中等教育、16歳から18歳までが後期中等教育となっている。経済の衰退である教育施設は高級化し、内戦の影響もあいまって、破壊されている施設が目立っている。

主な高等教育機関としては、フリータウンに1827年にイギリスの教会宣教師協会によって設立された、西アフリカで最古の高等教育機関である『フォーラ・ベイ大学』が存在する。

1876年にイギリスの『ダラム大学』と提携し、1959年に『シエラレオネ大学』となって、イギリス王国から許可を得た。

1967年に同大学はフォーラ・ベイ・カレッジとモヤンバに『ンジャラ・カレッジ』の二校として設立された。

中等教育機関は主に『アルバート・アカデミー学校』、シエラレオネで最古のカトリック系の中等教育の『セント・エドワード』学校、及びシエラレオネで最古の女子学校『アニー・ウォルシュ・メモリアル学校』などがある。

2004年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は35.1%で、内訳として男性が49.7%で、女性が25.8%である。

文化

首都のフリータウンはその名が示す通り、イギリスや北アメリカ、ジャマイカから移住してきた解放奴隷が建設した街であるため、クレオール文化的混合を色濃く残し。内陸地方の現地部族は現地の伝統文化を守って暮らしている。

通信網

  • 固定電話の回線数 - 約25,000回線(2001年)
  • 携帯電話の回線数 - 約30,000回線(2001年)
  • 電話システム
  • 電話及び電信業務の限界
  • 国内 - 国内のマイクロ波無線装置は、フリータウンからボーとケネマ間まで接続
  • 国外 - 「衛星地球局 - インテルサット」の中継局が1局 (大西洋)
  • ラジオ局の数 - AM 1局, FM 9局, 短波放送 1局(1999年)
  • ラジオの台数 - 112万台(1997年)
  • テレビ局の数 - 2局(2006年)
  • テレビ受像機の台数 - 53,000台(1997年)
  • インターネット接続業者の数 - 3業者(2006年)
  • インターネット使用者の数 - 約20,000人(2001年)
  • トップレベルドメイン(CcTLD)

在外公館一覧

アジア

  • インド 在インド高等弁務官事務所 (ニューデリー)
  • 中華人民共和国 在中華人民民国大使館 (北京)

北アメリカ

  • アメリカ合衆国 在アメリカ合衆国大使館 (ワシントンD.C.)

ヨーロッパ

  • イギリス 在イギリス高等弁務官事務所 (ロンドン)
  • ドイツ 在ドイツ大使館 (ベルリン)

ベルギー 在ベルギー大使館 (ブリュッセル)

  • ロシア 在ロシア大使館 (モスクワ)

中東

  • イラン イラン大使館 (テヘラン)
  • サウジアラビア 在サウジアラビア大使館 (リヤド)

アフリカ

  • エチオピア 在エチオピア大使館 (アディスアベバ)
  • ガーナ 在ガーナ高等弁務官事務所 (アクラ)
  • ガンビア 在ガンビア高等弁務官事務所 (バンジュール)
  • ギニア 在ギニア大使館 (コナクリ)
  • ナイジェリア 在ナイジェリア高等弁務官事務所 (アブジャ)
  • リビア 在リビア大使館 (トリポリ)
  • リベリア 在リベリア大使館 (モンロビア)

国際機関代表部

  • 国際連合代表部 (ニューヨーク)
  • 欧州連合代表部 (ブリュッセル)
  • アフリカ連合代表部 (アジスアベバ)

軍事力

  • シエラレオネ軍は王立西アフリカ辺境軍、通称【RWAFF】のシエラレオネ連隊を全身としており、シエラレオネ独立後の1961年に編成された。
  • 2002年以降3軍が統合され、シエラレオネ共和国軍の1組織に統合される。
  • 総司令官は大統領で、軍人の最高位は防衛参謀長、2008年9月12日以降の防衛参謀長は【アルフレッド・ネルソン・ウィリアムズ】准将が務めている。

軍事部門

  • 陸軍 (旧RSLA)

軍事力

有効人数
15歳~49歳までの男性人口 1,228,664人(2003年)
兵役に適合する人数
15歳~49歳までの男性人口 596,617人(2003年)
軍事予算
アメリカドル換算 1026万ドル(FY02)
GDPに占める割合 1.5% (FY02)

歩兵用火器

FN FAL

L85 - 特殊部隊でのみ使用。

RPD軽機関銃

RPK軽機関銃

69式ロケットランチャー

装甲戦闘車両

6x6 ピラーニャI

OT-64 SKOT - 特殊部隊でのみ運用。

BMP-2

航空機

Mi-24 - 3機

Mi-8 / Mi-17 - 各1機ずつ

MFI-17 Mushshak - 2機

上記に書いた航空機の稼動状態は不明である。

ミルトン・マルガイ

シエラレオネから誕生した初代首相。

1895年にイギリス保護領のシエラレオネ南部のメンデ族の裕福な商人の息子として、またメンデ族の戦士長の孫として生まれる。復員同胞教会学校で教育を受け、中等学校は『アルバート・アカデミー』に入学、大学では1921年に『フォーラー・ベイ・カレッジ』で歴史の学士号を取得する。その後イギリスに留学し、ダラム大学キングス・カレッジ医学スクールで修士学位を取得し、1926年に保護領での最初の医者になるため、医学を学び卒業した。

1928年に高齢者医療官への政府のサービスに入り、1950年にシエラレオネ人民党、通称【SLPP】を結成し、SLPPの初代代表となる。

1958年の選挙でミルトン・マルガイ率いるSLPPが大勝し、シエラレオネ初代首相に就任し、1960年に没するまで首相を務めた。

その後、異母兄弟である『アルバート・マルガイ』が1967年まで首相を引き継いだ。

1956年にイギリスの支援で設立された『ミルトン・マルガイ盲学校』は彼の名に因んでいる。

アーネスト・コロマ

シエラレオネ現大統領。

西アフリカの政治家であり、2007年より同国大統領務め、全人民会議(APC)代表も兼任している。

西アフリカ保険協会、通称WAICAやイギリスのリスクの保険協会、及びイギリスのディレクター協会のメンバーも勤めている。

1953年10月2日、シエラレオネ北部州ボンバリ地区のマケニで生まれる。

シエラレオネ協会小学校、政府の男子中学に進学、マグブラカの大学、及びフリータウンのフォーラー・ベー・カレッジのシエラレオネ大学に通った。

1978年にシエラレオネの保険会社に入る前はマケニのセント・フランシス中学校で教え子をシエラレオネ大学のフォーラ・ベイ・カレッジを1976年に卒業させる。

1985年にReliance Insurance Trust Corporationに移動し、1998年に専務理事、2002年3月にせいぞか津堂を始め、全人民会議のリーダーを決める投票でAPCのトップに就任する。2007年8月11日に行われたシエラレオネ大統領選に出馬し、対立候補にはAPCの与党シエラレオネ人民党のソロモン・ベレワ副大統領や人民民主改革運動のチャールズ・マルガイなどが出馬したが、決着がつかず主意を競っていたベレワとの一騎打ちとなり、9月8日に行われた決選投票の結果、17日にベレワに勝利し、シエラレオネの新大統領に就任する。

2012年11月の大統領選挙に再度立候補し、得票率58.7%で再選を果たす。

シアカ・スティーブンス

1958年、9月にスティーブンスはミルトン・マルガイ首相の異母兄弟でもあり彼の後継者のアルバート・マルガイと共にシエラレオネ人民党を脱退し、人民国家党を結成した。

1960年にPNPとUPPが4月のロンドンで開催される憲法制定議会に向けて全政党による統一戦線に加わった。

これにより国民連合の政権が誕生し、アルバート・マルガイが首相になると、スティーブンスは新たに独立前選挙維進運動 を結成するため連合を脱退した。その結果、彼はPNPから除外されるが、EBIMを全人民会議に変更しAPCの議長になった。

1964年にフリータウンの市長に当選。1967年3月17日、総選挙に勝利してイギリス総督サー・ヘンリー・ライトフットより首相に指名される。

ところが、デヴィッド・ランサナ准将が選挙結果に不満を持つマルガイ派の支持を受けてクーデターを起こし、スティーブンスとライトフットが逮捕された。

3月23日、チャールズ・ブラカ中佐らのクーデターでランサナが失脚し、アンドリュー・ジャクソン=スミス中佐の指導下で「国家改革協議会(NRC)」が樹立された。

スティーブンスはギニアへ亡命したが、スミス軍事政権の腐敗と独裁への批判が高まり、1968年4月17日にジョン・バングラ准将らがスティーブンスを支持してクーデターを起こし、NRC政権を打倒した。

帰国したスティーブンスを首相として、APCとSLPPが連合政権を樹立することとなった。